この物語の続き

僕はまだ名前も 知らない猫だけど
いずれあなたと手を結び 立派な人になる
くるまってた背を伸ばし
きっと見ていて どうか見ていて
二本足で立ってやる

 

小説を書いていると「なぜ書いているのか」という命題に突き当たることがある。

 

これは小説に限った話ではなく、創作行為全般に言えることなのかもしれないけれど、私の場合は物心ついた時から文章を書いているからではなく、意識的に文章を書くようになったので、その答えは常に明快だった。

 

一つは豊崎愛生さんのために書いている。もう一つは自分のために書いている。

 

この二つの言葉の意味は、実はそう大きく変わるものではない。いつだって豊崎愛生さんのことを想って文章を書いているけれど、豊崎愛生さんに届けようと思って書いているわけでは無かったからだ。

 

だから、本当のことを言うと、入籍が発表された時、ほんの一瞬、自分が文章を書くことの意味が宙に浮いたような気がした。

 

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『ネムルバカ』という大好きな漫画の中で、強く印象に残っている台詞がある。

 

妄想ってのは妄想の中でウソを演じてる限り 絶対に実現することはありえないの 

 

私は高校3年生の頃からずっと豊崎愛生さんが好きなので、頭の中でもし豊崎愛生さんとお付き合いできたら、もし結婚出来たらと、想像してみようともした。

 

だけど、妄想の中でも私は、自分の思いの丈を言葉にした時点で大泣きしてしまい、デートとかそういうことをイメージする段階まで、どうしても進むことが出来なかった。

 

妄想の中ですらウソを演じることも出来ない私は、せめて自分の頭の中でくらい、自分が豊崎愛生さんに相応しいと思えるだけの人間になろうと思った。

 

特別になりたかった。並び立ちたかった。自分も世の中の多くに言葉を発信する立場になって、同じ高さから彼女の見ている世界の色を知りたかった。

 

それが、豊崎愛生さんのために書いていて、自分のために文章を書くということの意味で、文章というのは私がちゃんと相応しい人間になるための武器として選んだものだった。

 

一人の女性をここまで好きになったことが無かったので、どうしていいのかが分からなかったのだと思う。ちなみに今も分かっていない。だから、まずは自分がカッコよくならなきゃいけないのだと思った。特別にならなくてはいけないと思ったのだ。

 

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文章を書くことはいつだって苦しい。

 

自分の至らなさを思い知らされるから。自分が特別なんかではないことを確認するための作業だから。もっと上手く、面白く、華麗な文章を書く人はたくさんいた。息をするように物語を生み出して、生活をないがしろにしてまでも、それをどんどん形にしていく人間にもたくさん会ってきた。そういう人が『プロ』という特別になっていて、私は自分の生活や世間の目を投げ出してまで、創作に文字通り命を捧げることは出来ずにいた。

 

逆にいえば、諦めることも出来ずにいた。挑んですらいないのだから、当たって砕けることも出来ない。自分に才能があるとすれば、そうした決定的な決断を下さず、ふらふらと生きていくことだけは上手かったことだろう。

 

豊崎愛生さんがまだ結婚をしていないという状況も、きっとそれと同じだった。正直、恋愛感情みたいなものは超越して、いつしか尊敬という言葉に置き変わっていったけど、同時に若いころに夢見た「特別になって、並び立ちたい」という感情にも、まだ時効は来ていないように思っていた。就職してから書くことを続けていたのも、その諦めきれない夢を完全に終わりにしたくなかったからだった。

 

思いの丈を愛生さんに伝えて、大泣きしてしまう、どこまでも勝手な想像の中の自分。そんな姿がいつしか私の夢そのものになっていて、それは握手会やお渡し会ではなくて、私がライトノベル作家としてデビューして、大賞作のアニメ化が決定して、偶然にもそのメインキャストに豊崎愛生さんがいて、そこで原作者として、初めてずっとファンだったことを告げる。あなたがいたからここまで来れたのだと告げる。

 

そんなものは叶わないと思いつつも、アニメのような分不相応な夢をいつまでも捨てることが出来ずにいた。

 

だから、発表があった時、もう書く理由はないんじゃないかと感じた。かつて夢見た可能性に間に合わなくなったのだ。豊崎愛生さんにもらった時間への感謝は、この先、何があっても変わらないと胸を張って言えるだけの時間を過ごしてきたからこそ、心から祝福する気持ちも本当だった。だからこそ、これからはこれまで行くことが出来なかった(応募すらほとんどしなかった)握手会にいけるように努力して、そこで直接言葉を伝えていけばいいんじゃないかと思った。

 

色んな感情が胸の中で渦巻いて、言葉にならなかった。他の誰かが共感できるようなことを言っていたとしても、他の誰よりも私にとって大切な感情は、私の中にしかなくて、表面の上澄みを突き破った水底にこそ眠っているように思えた。

 

それが分かった瞬間に「書かなくては」と思わされた。

 

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文章を書くことはいつだって苦しい。時には息も出来なくて、時には傷口を直接抉ったり、ぐちゃぐちゃに搔きむしらなくてはいけないこともある。

 

それでも、どうしようもなくそのを表現しなくてはいけないと思わされる瞬間や感情があって、そうした奇跡のような時間をいくつも私にもたらしてくれたのが、豊崎愛生さんという人だった。

 

だから私は、自分が思いつく限りの、ありったけの祝福の言葉を手紙に書いて、大好きなあの人に送ろうと思う。

 

きっとそれこそが、ここまで文章を書いてきたことの意味なのだ。

東京

私はここまでの25年間をほとんど『東京』で過ごしてきた。

 

とはいっても、首都圏から外れた多摩地区を転々としていただけなのだけれど。

 

近い親族も大体この辺りに住んでいて、お盆やお正月なんかに顔を見せに行くのもほとんどが東京都内で、帰省なんて仰々しい言葉は似合わない、どこまでも日常の延長線上にあった。

 

朝起きてから夜眠るまで、学校も仕事も、帰ってくる場所も、全てが東京の中に在り続けてきた。

 

だから、東京は私の日常が染み着いた場所であり、同時に、どこまでも対峙しなくてはいけないリアルが待ち続けている場所でもあった。

 

 

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新幹線の車窓を眺めているうちに、背の高いビルの群れが、畑と一軒家に変わっていく様にわくわくする。

 

訪れた土地で「東京から来ました」というと、いろんな反応が返ってくるけれど「羨ましい」と言われることも少なくない。

 

もちろん、私自身それをステータスだと感じたことは一度もない。いうて多摩ですし……。

 

だけど、品川駅のホームに吐き出される度に「帰ってきた」よりも「帰ってきてしまった」という重たい感覚が身体を支配する。

 

スマートフォンを眺めながら、それぞれの目的地だけを目指して歩く人波に飛び込むとき、少しだけ息が苦しくなる。

 

羨ましくなんか全然ない。ここには現実があって、ただそれだけなのだ。

 

だから私は、東京を地元だと思ったことは一度もなかった。

 

『letter with love』の時なんかは、仕事の都合があったとはいえ、唯一東京公演のみ参加することが出来なかった。それでいて、徳島公演から深夜バスで帰ってきた時には、帰り際にiPodからランダム再生で「ただいま、おかえり」が流れて、東京に着いたら、くるりの「東京」が流れ、二重に感情を揺さぶられることになったので、もはやどちらが故郷なのか私にも分からない心境だった。

 

学生時代の大半を過ごしてきた『府中』ならば、地元と言われて少し納得するかもしれない。だけど、東京という言葉の輪郭はどこまでも曖昧で、支配されているようにこそ感じても、愛着はなく、私は逆に、他に帰る場所がある人々のことが羨ましくて仕方がなかった。

 

東京から旅立って辿り着いた土地は、どこも例外なく新鮮な魅力に満ち溢れていて、ここではないどこかに、私が心から自然な呼吸をすることが出来る永住の地があるのだと、信じて疑わなかった。

 

 

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このツアーの東京公演には中野サンプラザが会場として選ばれた。

 

 

開演前、今回一緒にライブに参加することになった大学時代の後輩に、中野サンプラザという会場についての思い出を話していた。

 

多分、関東圏の会場ではこれまで一番足を運んできた会場であることは『スフィアのMusicRainbow03』に参加できなかったので、この場所でスフィアを観るのは初めてだということ。

 

一応、そんな話はしたけれど、後輩はもともとスフィアがきっかけで仲良くなったわけでは無い。受け手としての感性に全幅の信頼を置いていて、3月の代々木で初めてスフィアのライブに誘った仲で、それから自分でスフィアやソロの音源をさらに掘り下げて聴いてくれていた。

 

だから、少しだけスフィアの話をした後は、しばらく(といっても2ヶ月も経ってないけど)会っていなかった間のお互いの話なんかをしていて、なんか眼鏡の話をしているうちに会場の灯りが絞られていった。

 

私自身、3公演目という慣れのような感情もあって、これから始まる時間と、ここまで過ごしてきた日常とのスイッチを上手く切り替えられず、ふわふわした気持ちのまま開演を迎えることになった。

 

 

初めて中野サンプラザという会場に足を踏み入れたのは、2011年の『豊崎愛生のMusicRainbow01』。間を置かず、同年6月の『love your live』東京公演に参加し、その後はソロのイベントを中心に何度となく足を運んだ会場だったけれど、この会場での記憶を振り返えると、思い起こされるのは、やはり豊崎愛生さんの姿だった。

 

だから、この日は何のライブTシャツを着ていこうかと思い立った時、スフィアではなく、3rdツアー『The key to Lovin' 』の最終公演の会場限定Tシャツを自然と選んでいた。

 

この日、豊崎愛生さんはソロパートの最後に『love your life』を歌った。

 

私がこれまで行ってきた神奈川県民ホール初日、静岡公演は共に『ハニーアンドループス』を歌うセットリストだったので、私にとっては、このツアーで初めて『love your life』を目の当たりにするタイミングとなった。

 

 

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高校最後の夏休みで、受験勉強を頑張るモチベーションも特に見いだせず、かといってポーズは見せなくてはいけなくて、昼間に体力をくすぶらせた分、夜は辺りが明るくなるまで、ずっと豊崎愛生さんのラジオのバックナンバーを聴きまくっていたように思う。

 

そのうちに想いが心の中で溢れていって、偶然にも夏休みの最後に開催が予定されていたスフィアのライブに足を踏み入れたのが、一番最初のきっかけだった。

 

その後は、また会いたいという気持ちを抑えられなくなっていき、文化放送で行われた『聖剣の刀鍛冶』の公開録音イベント、タワーレコード新宿店の『love your life』リリース記念イベントに行き、けいおんライブイベント『Let's Go!』にも参加した。

 

私は飽きっぽくて、好きだと言っていたものがコロコロ変わってしまう男だった。だから、その「偶然のきっかけ」から1歩を踏み出すことが出来たのも、きっと『東京』という場所に住んでいたからなのだと今更ながらに強く感じた。

 

今の私だったら、どこに住んでいたとしても、行ける限りのライブやイベントには行くだろう。

 

だけど、まだステージに触れる前の自分が、2歩も3歩も勇気が必要な場所で生活していたとして、果たして今日ここに辿り着けていただろうか。そんな可能性に想いを馳せる。

 

 

職場から会場までは約30分で辿り着くことができる。今週は同じ部署の一人がダウンしてしまったこともあって、開場時間まで仕事をすることになった。

 

寝不足だし、朝からほとんど何も食べてないし、足腰は痛いし、腕は上がらない(※これは筋トレが原因である)し、頭も回っていない。

 

私の甘さ以外に原因はないのだけれど、身体的にも精神的にも、ここまで参加してきたどの公演と比較しても、一番、万全とは程遠い状態でのライブ参加となったように思う。

 

だけどそれも、私の東京という場所でのリアルなのだと思った。

 

この中野サンプラザでも、何度となく『love your life』という曲を聴いてきた。

 

当たり前の日常のことを歌った曲で、その当たり前に対する『ありがとう』を繰り返す始まりの曲。

 

東京はどこまでいっても私にとっての現実で、理想郷は他の場所にあるのかもしれない。それでも、今の自分を形作っているのは、この場所で過ごしていなければ得ることは無かった時間たちで、決して当たり前ではない、その事実の延長線上に私は立っている。

 

この日のソロパートに『love your life』を聴けたことで、私は初めて、ここが私の地元公演なんだと自覚して、東京公演に参加できたように思えた。

 

9月の中野サンプラザには参加しない予定なので、長いライブツアーの中で、関東圏に戻ってくることはあっても、東京でライブを観るのはこれが最初で最後の機会だった。

 

旅の中でたくさんの新しい場所を知って、その土地のことを大好きになっていったけれど、自分の生活が詰まっている『東京』という場所を、ようやく好きになれたような気がしたのだった。