16FLIPS gkeisuke’s diary

16小節の長い話

飯田小鳥さんについての覚書き(甘々と稲妻11巻に寄せて)

「料理に一番大切なのは愛情である」というのは、キレイごとではない真実だと思う。

 

個人の好みや、食べる量はそれぞれに違っていて、それは、料理を作る人と食べる人の間に関係性が成熟されていなければ知り得ないことだから。


料理店に当てはめたとしても、味や量はもちろん、メニューやシチュエーション、値段や立地に至るまで考えられて、看板を掲げているのは「誰か」に選ばれるためだ。


誰かと一緒にご飯を食べに行くとき、選んだお店でその人が喜んでくれると嬉しい。一人で食べる時も、財布の中身や気分と相談しつつ、自分が一番喜ぶお店を選びたい。

 

その選ぶ過程に「誰かのための美味しい」を求める心があるのならば、本質はそう大きくは変わらないのだろう。


ただ、料理店の場合は、基本的には、たった一人のためだけに料理を提供している訳では無い。

 

どんなに美味しかったとしても「自分のために存在している」「これは俺のための料理だ」というのは、好きなアイドルが新曲を出すたびに「これは自分のための曲だ」と思い込んでいるファン(俺のことか?)と変わらないだろう。

 

 

私には年子の姉がいるのだけど、小さい頃は味の好みが真逆と言っていいくらいに違った。


姉がおにぎりで一番好きな具は梅干しだったけど、私は今に至るまで食べられない。私は魚が好きだったけど、姉はにおいが苦手だという。


運動会や学芸会といった、姉弟揃ってお弁当が必要なイベントがある時、母は大変だったろうなと思う。


姉の方は我慢して食べられるものも多かったけれど、私は給食を全部食べられた記憶が数えるほどしかないほどの偏食だった。


だけど、お弁当の日はいつも本当に楽しみだった。


姉のお弁当とは中身が少しずつ違っていて、たったそれだけのことで、私たちは愛されて育ってきたのだと、今なら分かる気がする。

 

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甘々と稲妻』という漫画が描いてきたのは、一貫してそうした「誰か」のために作られた料理のことだったように思う。


犬塚先生はつむぎちゃんのことが大好きだった。ただ、お母さんがいなくなって、お仕事も家事もこなすので精一杯で、時間と余裕が無かっただけ。


つむぎちゃんもそれを分かっているから、お弁当の中身が毎日代わり映えのしない冷凍食品でも、夕飯が外食やお弁当屋さんばかりでも、おとさんのことが大好きだった。


仮に、あの時飯田小鳥さんに出会わず、一緒に料理を頑張るという道を選ばなかったとしても、それは変わらなかったのではないかと思う。つむぎの何かを我慢している表情にちゃんと気付いて、走り出すことが出来たのだから。

 

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それでも、犬塚先生とつむぎちゃんは、飯田小鳥さんと出会って、3人は『美味しい』を通じて顔を見て向き合うことの大切さを知り、ゆっくりと丁寧にお互いのことを、自分が抱いている感情の意味を知っていったのだと思う。

 

***

 

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飯田小鳥さんは、犬塚先生に対して抱いているその感情の名前が何なのか、ずっと悩んでいた。

 

「好き」であることは間違いない。

 

でも、それを勝手に誰かに名づけられたくもなかった。

 

少しずつでも、きちんと自分自身で向き合って、高校生活の大部分を費やし、ゆっくりとその感情に相応しい答えを探していった。

 

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かつては理由をつけて、バレンタインデーにチョコを贈ろうともしていたけれど、つむぎの真っ直ぐな言葉と想いを受けとって、飯田小鳥さんの想いは、高校生活最後のホワイトデーにお返しされる。

 

一緒に美味しいを共有する中で、知っていることもたくさんあった。

 

以前からは考えられないほど料理の手際もよくなって、ナイフだって扱えるようになった。

 

それでも、自分にとって美味しいものが、必ずしも誰かと一緒とは限らない。

 

誰かに美味しいと思ってもらうために手を尽くしたら、どこまでいっても、あとは祈ることしか出来ないのだ。

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かつて、お父さんとお母さんに仲良くなってもらうため、たった一人で台所に立ったけれど、失敗して指を切ってしまい、その後に両親は離婚。自身も包丁がトラウマになってしまい、料理が大好きなのに、自分で作ることが出来なくなってしまった飯田小鳥さん。

 

彼女が犬塚先生、つむぎちゃんと一緒に過ごした3年間というのは、自分でも分からない、言葉にならない複雑な感情を『美味しい』の中に込めて伝えるようになるまでの時間だったように思う。

 

高校生活の終わりに、たった1人で大切な人たちのために作ったお菓子。

 

そこに込められた想いは、きちんと犬塚先生にもつむぎちゃんにも伝わって、つむぎちゃんには小鳥さんが意図していた以上の想いまで伝わっていて、その『美味しい』は言葉を超えた意味になった。

 

誰かのために作ったものを、その人に『美味しい』と言ってもらうまでの物語。

 

そう言ってしまえば、本当にささやかなお話なのだけれど、私にとって、それは何よりも愛おしく尊い愛の形のようにも思えた。

 

 

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ひかりのしずくを味方にして(寿美菜子 Zepp Live Tour 2018”emotion” の感想文)

叶えたい夢だって 決めたアドレスだって
人と違うだけで わたし自身じゃないね
タシカナモノはちょっと みつかりにくいようで
ah 走り出したい もどかしくて

もっとずっと 大きくなあれ
きっとぐっと カラを破って あざやかに

裸足のままの気持ち 止められないまま
ひかりのしずくを 味方にして 走ってく
不安ばかりの日々も 負けないよだって
その先のドアを 開きたくて
強いのにやさしい風 そんなふうに笑って

 

──『Shiny+』


『Shiny+』という曲を初めて聴いたのは、私が大学1年生の春なので、みなちゃんが18歳の頃だ。

ステージで初めて聴いたその日から「ひかりのしずくを味方にして走ってく」というフレーズが、彼女の姿にすごくピッタリな気がして、頭の中に残り続けた。

豊崎愛生さん以外で初めてソロのシングルを手にしたのは、この『Shiny+』だったのを強く覚えている。

その時点でみなちゃんに抱いていた感情は「同い年なのにめちゃくちゃすごい」というものであって、愛生さんに対するような、既に熱し切った憧憬ではなかった。

ただ、彼女の「ひかりのしずく」を一瞬たりとも見逃してはいけないという、息が止まるような切実さだけは、最初から強く感じていた。

そして、そこから音楽活動を追いかけ続けたのは「カラを破ってあざやかに」なる瞬間の美しさを信じていたからに他ならない。

 


***

 


それは、2ndアルバムの『Tick』で、もう十二分に達成されたように感じた。

私が見つめてきた寿美菜子の音楽というのは、常に『今』だから表現できる、今まさに表現したい感情を、全力で踏みしめて『自分』を形作っていくものだった。

歌われている言葉も感情もコロコロと変わっていくのだけど、その全てが『寿美菜子』の言葉であることに、説得力が足りなかったことなど一度たりともなかった。

1秒ごとに更新されていく『今』を走り抜けていく中で刻み付けたのが、進み続ける寿美菜子の時計そのものである『Tick』というアルバムだった。

 

未来は地平線で 考え事は宇宙で
だから同じところで フワフワできないね
ヒトリニナリタイけど 共感も捨てられない
Ah 突き抜けたいな 前だけ見て

きっとそっと 見守られてる
もっとぎゅっと 信じてみよう飛べるように

 

──『Shiny+』

 

何度何回繰り返して
生まれ変わったとしても
同じ道選ぶよ 私は私のままで

さあ壊してみたい こんなもんじゃない 昨日までのセオリー
ともに描いていこう かっこ悪くてもかまわないよ
今 走り出した 夢はいつも 二秒先の世界へ

 

──『FLY @WAY』

 
蛹から蝶へ。かつて待ち焦がれていた羽化は、ここで為されたのだと思った。

 

gkeisuke.hatenablog.com

 

それでも、寿美菜子は止まることはなかった。

それどころか、さらに速度は上がっていった。

3rdライブツアー『Tick Tick Tick』で、その姿を実際に目の当たりにした時、鳥肌が止まらなかった。

それは、かつて思い描いていた可能性のさらに上を見せつけられたからだ。

本当に美しいものを見た時、抱く感情には少し恐怖が混ざることを知った。

『Tick』を経た後は、シングルがリリースされる度に、豊崎愛生さんとはまた別の意味で、自分の中で覚悟が必要な存在になっていった。

 


***

 


『Tick』から3年4カ月の月日が流れて、3rdアルバム『emotion』がリリースされる。

このアルバムについて、何か言葉にしたい気持ちはずっとあったけれど、自分の中で納得のいく言葉は見つからなかった。

1つ言えるとすれば『Tick』が進み続ける時計そのものだとすれば、『emotion』は時計では視認できないくらい、刹那的な瞬間を刻み付けたアルバムであったように感じた。

だからこそ、言葉にすればするほどに、感情が先へ行って、言葉が零れてしまう。

感情に言葉が追い付かない。

1曲1曲に対する言及があったとしても、アルバムに対するそれを形作ることは出来なかった。

ただ、前作以上に、その感情の塊のようなものに圧倒される感覚があることは確かで、圧倒されているうちに、気付いたら1枚を聴き終えてしまっているような、瞬間の煌めきに満ちていた。

 

同い年だけど、背中も見えないくらい先にいたみなちゃんが、ついに別の宇宙に行き着いてしまった。

それでも、その美しさから目を離すことが出来ないのは変わらなかった。

むしろ、その想いは強くなっていって、仕事の都合上、一公演しか参加できなかった舞浜の360°ライブは豊崎愛生さんの公演ではなく、寿美菜子さんの公演を選択するほどになっていた。

 


***

 


そして、5月13日。

寿美菜子 Zepp Live Tour 2018”emotion”』Zepp DiverCity公演を迎える。

前置きが長くなったのは、実はここで語るべきことはそんなに無いからなのかもしれない。

ただただ「感じよう」と思った。

1曲目が始まった時点で、これまでずっと握ってきたサイリウムの重さがもどかしくなってしまって、ポケットの中にしまい込んだ。

そうしたら、ライブは本当に一瞬で終わってしまった。

腕時計を確認したら、ちゃんと2時間半が経過しているし、自分の身体に刻まれた疲労感が、何よりも雄弁に熱狂を物語っている。

そこに言葉は残らない。もしかしたら、記憶さえも鮮明には残らないのかもしれない。

だからこそ、揺さぶられた感情だけが、いつまでも胸の中で燃え続けている。

 

閃光のように駆け抜ける4週間。

「映像化はされない」と事前に明言して臨んだツアー。

そこに残った感情こそが『emotion』というアルバムに対する私の答えで、みなちゃんが形にするものの全てなのだろうと思う。

それは『瞬間』を捉えようとするシャッタースピードとしては、究極に近い表現だと思う。

ついに、今度こそ、みなちゃんは行き着くところまで辿り着いたのだと思った。

 

炎は消えかけて あぁ 灰になって飛ばされて
声枯れても叫ぼう

終わらない sound 全く濁らない
heat beat もっと激しく
1つ手に入れたなら 握りしめて進もう

true heart 見つけて emotion 震わせて
叩かれたって No 貫ける

Ah…So!!

溢れだす sound まだまだ届かない
heat beat もっと鳴らして
1つ手に入れたら握りしめて進もう

strong heart 少し耐えて emotion 抗って
指図されても No 撒き散らす

Ah 止められない…

 

──『Piece of emotion』

 

それでも、これからも寿美菜子は『自分』を誰よりも強く信じて、貫いて、声が枯れても灰になってもそこに在り続ける。

自分の作詞を手掛けた曲でそんなことを言われてしまったら、もう、かなわないなとしか思えなくなってしまう。

どんどん凄くなっていく。全く濁らない。敵わない。追いつけない。

だけど、かなわなくても、追いつけなくても、その姿を追いかけ続けていたい。

追いかける努力をしなくてはならない。

 

きっとこのツアー、来週はもっとすごいものになっているし、再来週はその倍以上にすごい。ファイナルは言わずもがな。

その上昇も含めて、一瞬たりとも見逃してはいけないことは分かっているだけに、次を観る機会がファイナルになってしまうのは歯がゆい気持ちで一杯だ。

せめて次に会える機会までに、少しでも寿美菜子さんの全力についていける自分になって臨もうと切に思う。

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