11年越しに豊崎愛生さんと生電話をさせて頂いた話
先日開催された『豊崎愛生のおかえりらじお』スペシャル生配信イベントにて、豊崎愛生さん、三森すずこさんと生電話をさせて頂きました。
— ケイスケ (@gkeisuke) 2020年7月11日
お二人とお話した内容としては
「部屋の掃除が出来ないので、片付けのコツを教えて欲しい」
という何でもない話でした。
だけど、私は大好きな豊崎愛生さんと「何でもない日常のことをお話しよう」と決心するまで、約11年という時間が掛かったというお話です。
ちなみに全然生電話の話には入らず、例によってオタクの自分語りで8割方構成されているので、よろしくお願いします。
※既に視聴期間は終了しています。
私と豊崎愛生さんについて
2009年の夏休み。
高校3年生で受験を目前に控えていた私は、人生で初めてのライブに参加した。
声優ユニットスフィアの2ndライブ『Shake×Sphere -夏の夜の夢-』というライブだった。
そこで豊崎愛生さんと出会ってから、11年の時が経ち、今の私は28歳になった。
何をしても長続きしなかった私が、初めて向き合った本気の『大好き』という感情で、私は今まで豊崎愛生さんのことが大好きだ。
その間に、高校生から大学生になって、就職活動を経て社会人になった。
おかえりらじおの放送時間が変わったり、2017年にはご結婚を発表されたり、私も豊崎愛生さんも、少しずつ変わっていったけど、それでも豊崎愛生さんの存在は、常に私の心の真ん中に居続けている。
私とおかえりらじおについて
豊崎愛生さんのひとり喋りのラジオ番組である『豊崎愛生のおかえりらじお』には、第1回放送からほぼ毎週欠かさずにメールを送っている。
だけど、メールの文章の中では、意識的に個人的な感情を排除していた。
おかえりラジオにメールを送るにあたって、私の中で勝手に決めていたことがあった。
可能な限り、当たり障りのない日常の話を書いて送ろうということだった。
そして、それを何があっても毎週送り続けようということだった。
「私」という人間の姿が、極力見えないように。
実は、愛生さん本人に直接お手紙を書いたのも、就職が決まった後のソロコンサート1回だけだったりする。
あとは、ライブや楽曲の感想をTwitterや日記でひとりでに語ったり『こえ部』という同人誌に書かせて頂いたり、キャンペーンのアンケート部分に書いたりするくらいだった。
正直、今絶賛活動中のとよさきあき先生のおえかきアカウントにリプライを飛ばすことさえ、憚られてしまう。
ここまでの11年間、私は豊崎愛生さんと一度も直接言葉を交わすことはなかった。
その上で、おかえりらじおには、ほぼ毎週欠かさずに「何でもない日常の話」のメールを送り続けていたのだった。
オタクが見た夢
そして、この11年間、握手会やサイン会といった『接触系イベント』を、私は意識的に避けてきた面がある。
その理由を突き詰めると『オタクの意地』以外の理由がない。
私が文章を書き始めた最初の理由は
「ライトノベル作家になって、豊崎愛生さんと一緒に仕事をする」
というものでした。
誰かをこんなに好きになった事が無かったので、必死に考え抜いた結果に生まれた私の回答であり、唯一の夢でした。
2016年10月28日、大好きな豊崎愛生さんが30歳の誕生日を迎えた。
思えばこの日は、かつて僕が夢みる色んなことの「タイムリミット」として設定していた時間でもあった。
夢の中で僕はライトノベル作家になっているはずだった。
色んな事がトントン拍子に上手くいって、デビュー作がそのままアニメ化し、その主演が愛生さんで、そこで僕は初めて、あの人に直接「ありがとう」を伝えることが出来る。
そんな時間を夢見る一区切りとして「ここまでには叶えていよう」と、かつての僕が漠然と思っていたのが、愛生さんが30歳になる節目の年だった。
今の僕はライトノベル作家ではない。何かを叶えられたかと聞かれたら、何も叶っていない。今もその夢を真っ直ぐに追い続けられているかと聞かれても、そう在れてはいないのかもしれない。
ただ、豊崎愛生さんが大好きだという感情だけは、ずっと持ったままでこの節目の年を迎えることが出来た。
豊崎愛生さんと直接お話する機会があるとすれば、それは、私が『夢を叶えた瞬間』でなくてはならないと思っていたのだ。
声優とファンとしてではなく、一人の人間として、同じ高さまで上り詰めてから、初めて「あなたに出会えてどんなに幸せだったのか」という想いを伝えたい。そのためには、今の自分があまりにも小さすぎる。
だから大学時代は「ライトノベル作家になって、愛生さんと一緒にお仕事をする」という夢を掲げながら日々を生きていた。
『みやっちさん』との出会い
そんな大学時代の私は、オタクとして尖り散らかしていた。
学生時代からの友人と一緒にライブに参加していたこともあり、他のファンの人たちと繋がりを持とうとは特に思っていなかった。
それどころか、当時、大多数の人たちとは分かり合えないだろうなと思っていた。
よく人に話している“ジャックナイフ”だった頃の記録が出てきた pic.twitter.com/JB0N8LMCvk
— ケイスケ (@gkeisuke) 2020年5月16日
友人を相手に、豊崎愛生さんに対する想いやライブの感想を語ることが出来れば、十分だったし、その上で、誰に届けるでもなくひとりでにTwitterで呟いていた言葉を見つけてくれた方もいて、それで十分に満たされていた。
転機となったのは、就職した後にみやっちさんと出会ったことだった。
2015年、スフィアのベストアルバムと『情熱CONTINUE』というシングルの発売を記念して、情熱握手会というイベントが開催された。
学生時代のように自由にイベントに参加できなくなったことや、上記のように接触系イベントには積極的に参加してこなかったので、応募券を誰かに託そうと思っていた。
ただ、イベントの趣旨を見たとき「届くべき」だと思った人に応募券を託したいなと思っていた。
そこで、普段のつぶやきから、勝手にシンパシーを覚えていた、みやっちさんにシリアルナンバーを託すことにしたのだ。
@number99_Aki いつもつぶやきを見ていて、多分私の身の回りで、いま一番スフィアに会って、直接言葉を伝えたいって思っている人がみやっちさんだなって、勝手に感じていたので、使っていただけると同じお仕事している者としても一番嬉しいです。DMで送りますね!
— ケイスケ (@gkeisuke) 2015年2月13日
今思えば、私が人の想いを推し量るような真似をしていること自体、めちゃくちゃ失礼な話だ……。
みやっちさんは、あの頃の私とは対称的なオタクだなと思っていた。
周りの人たちに愛されていて、その愛を受けるに相応しい、とても誠実な生き方をしている方だと感じていた。
同時に根っこの部分に持っている感情は似通っていて、一つの塊の中で、みやっちさんが『陽』で、私は『陰』だとも思っていた。
そんなみやっちさんとの出会いで、私の世界は大きく広がることになった。
おかえりラジオを聴いてる中で、徐々に内輪の友達以外にも繋がりが出来てきて、私自身もライブの感想をぽつぽつとツイッターでも呟くようになり、ありがたいことにそれを拾ってくれる人も何人かいたのだけれど、誰よりも熱心に、私の文章から何かを感じ取ってくれていたのがみやっちさんだった。
— ケイスケ (@gkeisuke) 2016年7月24日
みやっちさんが私を外の世界に引っ張り出してくれて、自分の感じたことが思っていた以上に、多くの人にとっても同じであることがようやく分かった。ありがたいことに原稿の依頼も受けて、今日も開演前も開演後もたくさんの人と話せた。みやっちさんは、私と世界とを繋げてくれた恩人だと思っている。
— ケイスケ (@gkeisuke) 2016年7月24日
見ている夢が同じだなと思っていた。ただ私の場合は、それが自分の中の意地とかプライドとかでこじれてしまって、みやっちさんのように真っ直ぐにはなれなくて、それが眩しくもあった。だから陰から勝手に応援していたのだけど、陰から手を引いてくれたことへの感謝を直接お伝えできてよかった。
— ケイスケ (@gkeisuke) 2016年7月24日
生まれ育った場所も、年齢も、住んでいる土地も違うけれど、みやっちさんのことは、兄のようにも、もう一人の自分のようにも思っていた。
だから、たまに直接お会いする時は、豊崎愛生さんを通じたお互いの人生の話をしていた。
そんなみやっちさんが、2017年『love your Best』の購入者キャンペーンで、生電話に当選された。
その少し前、2017年7月に行われたおかえりらじおのイベントの後、みやっちさんとお話する機会があって、そこでお話された『手紙』のお話が強く心に残っていた。
みやっちさんは手紙の中で、日常の中で上手くいかないことも、自分の弱い部分も、嘘をつかずに、全部愛生さんに伝えているのだと教えてくれた。
何故なら、それは愛生さんが私たちにしてくれていたことだからなのだと。
その言葉は、自分勝手なプライドに雁字搦めになっていた私には、あまりにも真っ直ぐで眩しい光だった。
いつか、自分もそうなれる日が来るのだろうかと思い続けていた。
『叶えらんなかった』夢の先
結論から言うと、今の私はライトノベル作家ではない。
夢は叶っていないし、そんな自分に強く失望したりもした。
それでも、己の弱さを認めた上で、私は彼女と出会って、叶えられなかった夢の先にある現在に、少しずつ胸を張れるようになってきた。
19年2月、スフィアの充電期間明け一発目のライブ『ignition』の前夜に返ってきた健康診断の結果で『要精密検査』という判定を受けた。
想像しうる病名から『死』を意識した時、真っ先に思い浮かんだのが「俺はまだ豊崎愛生さんの握手会にも行ってないのに……死にたくない……」ということだった。
死を切実に意識する瞬間というのは、生の根源を問い直す瞬間に等しい。
私の中で、彼女と「直接言葉を交わす」というのは、どうしても捨てられない、根源的な夢で在り続けているのだと思った。
次に機会があったら、豊崎愛生さんと直接言葉を交わそうとようやく決意した矢先に、新型コロナウイルスが発生である。
想像もできなかった理由で、日常は形を変えて行き、この先『握手会』というイベントそのものが、開かれるかどうかも分からない状況になってしまった。
これは、意地を捨てきれず、自分の夢ともちゃんと向き合えず、いろんなことを先延ばしにし続けてきた自分への罰なのかもしれないと思った。
目まぐるしい変化があった2020年の中でも、私の日常の中で、変わらずにいてくれたのが『豊崎愛生のおかえりらじお』だった。
どんな状況でも、いつもと同じスタジオからの生放送にこだわって、家から出れなくても「ただいま」と「おかえり」を交わし合う場所で在り続けてくれた。
そして、今年は無いと思っていた夏の番組イベントも、ニコニコ生放送でのイベントとはなったけど実施してくれることが決定した。
そこには『生電話』のコーナーがあった。
今の自分ならきっと大丈夫と信じて、1通だけ、いつものラジオと同じ「何気ない日常の話」を話題に、生電話のメールを送ってみたのだった。
一千年の散歩中
生電話を終えて、めちゃくちゃ怖いけど改めてタイムシフトで放送を観返してみる。
ここまでの話が、すべて私が作り上げた幻覚だったと言われても否定が出来ないため、豊崎愛生さんに対する感情をたくさん話してきた姉にも見届けてもらった。
自分でも笑ってしまうくらい「なにヘラヘラしとんねん」という喋り方で、豊崎愛生さんと言葉を交わし、三森すずこさんに「部屋にダンボールを放置していると、ゴキブリがタマゴを生みますよ」という警告を受けたりしていた。
昨晩は、豊崎愛生さんと三森すずこさんと電話した報告を姉に行い、自分で再確認するのが怖いのと、幻覚の可能性が高いから一緒に確かめて欲しいとお願いして、当該箇所をリビングのテレビで再生したところ、オタクのたどたどしい喋りに30分くらいずっと笑われるやつをやっていた(幻覚ではなかった)
— ケイスケ (@gkeisuke) 2020年7月14日
これまで、豊崎愛生さんと直接お話できなかった一番の理由は、単純に自分に自信が無さ過ぎて「みっともない姿は見せられない」と思っていたからだったのだと思う。
本当に、生まれて初めて大好きになった人だったのだ。
長々と書いたけれど、私をずっと縛っていたのは「一番大好きな女性に、自分が思い描いた最高にカッコいいシチュエーションで自分の想いを伝えたい」という、非常に青臭くてひとりよがりな感情でしかなかった。
でも、今の私にその青臭い感情を否定することは出来ない。
その想いを大切に生きてきた青春の日々が、今の私を形作っているのだと、28歳の今なら分かるからだ。
あの頃の生き方を あなたは忘れないで
あなたは私の 青春そのもの
そして、そんな拗れた想いを抱え続けていた人間が、豊崎愛生さんとようやくお話できたことに対して、本当にたくさんの人たちから祝福の言葉を頂いた。
私は、何者にもなれなかったのかもしれない。
それでも、豊崎愛生さんと出会った人生の先で、私は私の「ほんとうの幸い」と出会うことは出来たのだと思う。
「さあ僕らは何もない
だからこの手にはこれからもなんでも出来る」とあなたが教えてくれた
あなたに会いに行こう
約束も何もないけれど
私の手には道で集めた花束がある
それでも、別にこれが何かのゴールだとは全く思っていない。
私も、豊崎愛生さんと唯一言葉を交わした記憶が「私の部屋が汚い」という情報なのは嫌なので……。
むしろ11年かけて、ようやくスタートラインに立てたのではないかという感覚の方が近い。
これからは、どんなにみっともなくても、伝えられる機会に恵まれたのであれば、ちゃんと大好きな人に、気持ちを伝えていこう。
そして、その時には、愛生さんにちゃんと胸を張れるように、一人の人間として善い人生を送れるように、日々を頑張って生きていこうと思う。
まずはダンボールまみれの部屋を片付けようね……。
豊崎愛生さんを大好きな人間としての人生は、まだまだこの先も続いていく。
今は私の夢の形も、少し変わったようにも思う。
これからもずっと同じではなくて、時間をかけながら、少しずつ変化していくのだと思う。
愛生さんは、よくラジオで「ディナーショーとスナックのママになるのが夢」という話をしている。
この先、愛生さんがスナックのママになった時、酔っぱらってグズグズになりながらでも「あなたに出会えてどんなに幸せだったのか」を伝えられたら、私の夢はそこで叶うのかもしれないなと思った。