つながりたいから、あきらめない(豊崎愛生 Dive/Connect @ Zepp Onlineの感想)
豊崎愛生さんの配信ワンマンライブ『豊崎愛生 Dive/Connect @ Zepp Online』が、2月16日(火)に行われました。
先に結論だけ書くと、私が大好きなのはこの人ですと、胸を張って言えるステージでした。
そこに観客がいるかいないか、収録なのか生なのか、会場なのか自宅なのか、そんなことは全て関係無かったとハッキリ言える『ライブ』だったと思います。
配信ライブという形態でありながら「いつものライブ」だと感じたのが、何よりもすごいことだった。それは豊崎愛生さんが、これまでも、どんな時でも、どんな場所でも、一人一人に想いと言葉を届けるために歩き続けてくれたことの証だとも思った。本当にありがとうございました。 #ダイブコネクト
— ケイスケ (@gkeisuke) 2021年2月16日
これまで少しでも彼女や彼女の音楽に触れて良いなと思った人は、あるいは興味を持ってくれた人は、是非後からでも観て欲しいなと思います(※2月23日12時までは見逃し配信のチケットを購入することが出来ます)
この文章で伝えたいことは、これが9割です。
読んだ人が豊崎愛生さんのステージが観たくなるような、彼女の魅力を伝えるための文章を書ければいいなと、もう十年近く思い続けているのだけど、やっぱり私という人間に、その適性は無いなと痛感しています。
だから、残りの1割には願いとして、豊崎愛生さんのことを大好きで過ごしてきた、私の人生を注ぎ込むしかありません。
2020年と無観客の配信ライブ
『ライブ』とはなんだろうということを改めて考えていた。
〈人・生物が〉生きる
〈人・動物が〉暮らす
(記憶・歴史などに)生き続ける、〈制度・思想などが〉存続する
(特に)充実した暮らしをする、人生を楽しむ;(信念・理想などに従って)暮らす、実践して暮らす
『生きる』や『暮らす』は想像しやすいのだけど『充実した暮らしをする』『人生を楽しむ』『(信念・理想などに従って)暮らす、実践して暮らす』という意味の方に、ステージ活動としての『ライブ』の意味はあるのではないかと思う。
2020年、ライブは不要不急のものとして扱われて、それは1年経っても元通りにはなっていない。
一個人としては「家にいること」「人の集まる場所に行かないこと」というライブに参加することとは対極にある行動を推奨され、どうしようもないやるせなさは積もっていくばかりだった。
開催の延期や、ライブハウスの閉店、運営活動の続行可否など、目に見える大きなダメージがあったけど、それさえもいつしか「仕方がないこと」という風に慣れ始めてしまっていたのが、恐ろしくもあった。
そして、無観客の配信ライブというのは、それはそれで良さもあるのだけど、大好きだったライブの代替行為にはなり得ず「仕方がない」と受け入れていることの象徴のようにも感じてしまっていた。
希望の光
そんな無観客の配信ライブを、豊崎愛生さんは「希望の光」だと話していた。
配信ライブという形は、どんなにミニマムになったとしても、声を届け続けることが出来る希望の光 #okaeri #agqr
— ケイスケ (@gkeisuke) 2021年1月28日
豊崎愛生さん、ライブやコンサートになかなか行けない今の状況だけでなく、10年先、20年先に向けた展望を『配信ライブ』の中にみていて、先が見えない未来に対して、明るい道標を一つ作ってもらったような気持ちになった。ありがとうございます。 #okaeri #agqr
— ケイスケ (@gkeisuke) 2021年1月28日
ソロアーティスト豊崎愛生の『ライブ』は、どんなに会場が大きくても、どんな場所でも、一人一人に手渡しで言葉を届けるように歌い続けてきた時間だったと思う。
私も、その歌に込められた願いたちに、救われてきた一人だった。
彼女にとっても「新しい挑戦」だと話していたけど、無観客の配信ライブとなった時に、そのパフォーマンスを私がどういう風に感じるのかは、未知数な部分も大きかった。
そして、ライブ1曲目のletter writerの歌い出しを聴いて、全身が粟立つような感覚を覚えた瞬間に、全てを理解したような気がした。
このライブは、決して「仕方がないこと」なんかじゃないんだと。
たとえ目の前に観客がいなくても、収録配信だったとしても、確かに彼女は、今この瞬間に配信を観ている一人一人に、直接想いを届けるために歌っていた。
幸せは街と息をして歌になる
だから「おはよう」と「おかえり」をね
また君と交わすのだろう
この楽曲における「幸せ」とは、生き続けていくことそのものなのだと思う。
街というのは人の営みが集まった場所で、息をするというのは人が生きるために当たり前に必要なことだ。
この1年で私たちの日常は確実に姿を変え、もう元通りにはならないもの、決定的に失われてしまった時間もたくさんあった。
だからこそ、彼女は「明日また君に会えますように」と願い、観客と歌声を交わすこの曲を1曲目に選んだのだと思う。
変わってしまった日常の中でも、彼女は一度も休むことなく、これまでと同じ木曜22時にラジオから声を届け続けくれた。
家から出なくなっても「ただいま」と「おかえり」という言葉を当たり前に交わす場所を、ずっと大切に守り続けてくれていた。
それは、不安な日常の中でも、ただ一つ変わらないものとして寄り添い続けてくれた、強く、まっすぐな希望の光だった。
『歩き続けること』と『幸せ』の意味
今回のライブのテーマを、愛生さんは『歩き続けること』と『幸せ』だと話していた。
セットリストを紐解くと(※紐解きおじさん要素の回収)豊崎愛生さんのディスコグラフィーは「歩き続ける」ことを一貫して歌い続けてきた時間であることが分かる。
豊崎愛生さんが歌ってきた歩き続けることとは「生き続けること」「新しい世界に踏み出すこと」こととも言い換えられるのだと思う。
歩こう 大切な melody of heart 持って
平坦に見えて本当は そんな簡単じゃないけど
自分のペースで歩き出せば
オリジナルの宝物みつかる
どこまでも行くよ 歩き疲れても
知らない世界を 見つけに行くんだ
真っ白なノートに 溢れるほど
言葉を紡いでこう
きっと変われるから
ガラスのシューズを脱ぎ捨てて
愛しい私と出かけよう
いっせーのって合図で
扉を開けてこう
そして、もう一つのテーマが『幸せ』だった。
このライブで、豊崎愛生さんは、なにを『幸せ』として歌ったのか。
上記の「歩き続けること」の他に選ばれた楽曲たちを改めて聴くと、共通して歌われていたのは「会いたい」「繋がりたい」という感情だったように思う。
明日また君に会えますように
lalala……
僕はまだ名前も知らない猫だけど
いずれあなたと手を結び
立派な人になる
つないで つないで
抱きしめないかな
繋がれる 世界中のドア
めぐり めぐれ!
教えて僕らのオマジナイ
またあした ララ
会いたい・もうない・永遠・小さなワンシーン
触れていたい
わたしたち つなぐメロデイ
ララララ
豊崎愛生さんと出会ってからの11年間、私は色んな感情を拗らせて、言葉を交わす機会をずっと避けて生きてきた。
日常が今のような形に変わって、握手会やサイン会が二度と行われない可能性も十分にあると思った時、私は「この先、豊崎愛生さんに一度も直接ありがとうを言えずに死んでいくのか……」と、酷く後悔したことを覚えている。
そんな想いがあったから、昨年生電話という形で初めて言葉を交わすことが出来たのだけど、こんなにも「会いたい」「繋がりたい」と歌っていたのだなと今さら気づいたのは、これまで、そのことからも目を背け続けてきたからなんだろうなと思う。
それでも(幸せを)願ってしまうんだ
そして「歩き続ける」ことと「幸せ」という、このライブのテーマが集約された1曲が、この日初めて披露された新曲『それでも願ってしまうんだ』だった。
手を繋ぎたいよ
目を合わせたいよ
単純な気持ちも声に出していこう
今こそチャンス到来ってことじゃないかい?
届けるための小さな話
手を繋ぎたいよ
目を合わせたいよ
どこまでこの世界を愛せるように
幸せを証明したいんだ
大切なみんなとの話
ララララララララ……
直接、手を繋ぐことも、目を合わせることも出来なくなって、1年近くの時間が経った。
それでも「手を繋ぎたいよ」「目を合わせたいよ」と、これまでで一番、まっすぐで単純な言葉を歌った彼女と私たちは、その日、同じ願いで確かに繋がったのだと思った。
2回目の『それでも願ってしまうんだ』で配信ライブのチャット欄を見ると、ファンの人たちが「ララララ」と言葉を打ち込んでいて、声は出せずとも、想いは繋がっているのだなと思った。
それを『ライブ』と呼ばずに、何と呼ぶのだろう。
心からの願いと、素直な言葉で繋がった私たちは、それぞれの日々を歩き続けてさえいれば、どんなに時間が掛かったとしても、必ずまた会えるのだと約束を交わしてくれたように思えた。
そして、ライブ中には、チャット欄にもツイッターにも、日常がこうなる前に出会って、想いを分かち合った友人たちがいた。
ライブが終わった後は、そんな友人と興奮気味にライブの感想を話して、お互いの人生の話をして「また会いましょう」と約束を交わした。
その約束が、そのつながりが、私の人生にどれだけの勇気を与えてくれたのか。
どんなに時間が掛かっても、やっぱり私は、彼女にそのことを伝えに行かなくてはいけないのだと思う。